2024年4月10日 新入社員現る

現職場は、会社は全国展開していて、規模はでかい。

まだ左前ではないらしく、今年度は十数名の新卒を採用した(退職で減る数を見越してか?)

配属先に関わらず新人は一度は現場に放り込む「製造業あるある」なのか、地方の場末の工場に、新入社員がぞろぞろとやって来た。研修中はホテル暮らしだというから、太っ腹なことだ。

工場内の部署はひと通り経験させる、とかで。私が働く部署にも二人一組でやって来て、半日働いて、去っていく。

「何でこんなことやらなきゃなんねーんだ」と顔に書いてあるようなのもいるし。相棒と協力しあって頑張っちゃう組もいる。大概は、戸惑っていて、真面目だ。

そうかと思えば。食堂で、眉をひそめるような座り方をしてるのもいる。子供を社会化する責任を周りの大人全員に放棄されて、今や本人が大人だ。悲哀を感じる。

知らない環境が不安なのか、複数になるとすぐ群れる。出入り口でもかたまりになっている。自分が「邪魔」と言い放てる威勢のいいおばさんになれなかった要因を考える。

少し年下の社員が「年々、質が落ちてる気がする」と言う。

就職氷河期に就職を果たした勤続数十年の猛者から見れば、平成生まれのお子達は物足りなく見えて当然だが。そういう話ではなさそうだ。

 

約二十年も派遣で食ってきて、数多の職場に出入りしてきたせいか。どの職場にいる時も、ぴちぴちの新卒に「おはようございます!」と朗らかに挨拶されても「こいつもあと三年もすれば『これだから派遣は』と舌打ちするようになるんだろうな」と思う。

斜に構えるのが習い性ってどうよ、と思うけど。

私が派遣で働き始めた当時は、派遣とパートの違いがわかっていない人が多かった。非正規雇用という言葉もまだなかった。

今は違う。労働者の階級が可視化されているように思う。

正社員と非正規。非正規の中でもずっとそこにいる社内の仲間と、派遣は違う。それが当たり前の世界に育った新卒の子達は、それが当たり前の職場に就職する。そして、どうにかかき集めたのに辞められたらどうしようと、戦々恐々の人々に囲まれて、社会人生活を始める。

……まぁ、私の知ったことじゃない。私のいる職場には新入配属はないし。契約期間も来月までだし。

 

 

 

 

 

 

2024年3月26日

雨漏りの音を聞いていると、悲しくなってくる。

どこからか建材を伝ってくる雨水が、築40年余の建て売り住宅の薄い天井板に落ちて、屋根裏に反響する。

私は甲斐性のない低所得者なので、買ってもいない宝くじが当たらない限り、雨漏りの音を聞き続けなければならない。悲しくもなる。

親の生前、外壁は2回塗った。

だから雨漏りだけで済んでいるのかもしれないし。

2回目の塗装に不備があるから、北側から風雨があたる時だけ雨漏りするのかもしれない。

親の生前も、私だけになってからも、修理その他に何度か立ち会ったが。

来てもらった業者さんから「こんなの見たことない」「これ防水じゃないです」等、同業他社の所業にあきれる声を、聞く羽目になった。

後になって「やられた」と気付く時もあった。

トイレを買い換えた時も。見積書を見ると、伝えていた製品に何気に英字を付け足した、上ランクのウォッシュレットにされていたので、指摘して書き直させたのだった。

過疎への下り坂を歩む、昭和の乱開発期の分譲住宅多数、という非リッチな地域で商売を続けていくのは大変なのだろうが。「貧すれば鈍する」を地でいってるんかい。

あるいは。敷地40坪未満の、こぢんまりした家の住人かつ女だから、舐められてるのかもしれない。

今のところ、雨漏りは室内に水漏れしてくる程、深刻ではないけれど。

床を踏み抜くとか、排水口が詰まるとか、緊急事態が発生する可能性はある。

そうなったら。ひとりで対応して、業者を選んで、支払いをしてーーと思うと。

雨漏りの音に悲しくなってくるどころじゃない。暗澹たる心境になる。

 

2024年3月24日

TVをほとんどつけなくなった。

天気予報だけは観る。原付乗りなので。

 

冬ドラマも全然観なかった。林遣都は観たかったけど、もうあのノリについていく体力と気力がない。クドカン脚本も、すごく疲れるだろうなと思って、観なかった。

 

深夜ドラマは、昔は好きだったけど。今は各局量産していてチェックするのも面倒で、やはり観なかった。

 

大河ドラマは5,6年に1回ハマるかどうか、という程度で。今年はあまり興味が湧かず、断続的に、観ていた。

OPが気に入らないので、夜8時にTVをつける気分にならない。しかし大河OPのベストは曲も画も「風林火山」だ、と思っている人間に、今後気に入るOPが現れる訳がない。

初めて夜8時から最後まで観た回が、散楽及び盗賊一味全員退場、の回だった。

怖ェ。脚本家及び制作陣の本気を観る思いだ。

でもやっぱり「なんだかなぁ…」で、8時半頃から観る。ヤマ場だけつまみ食いである。

 

現職場は、全く安心安全ではないので。ドラマに費やせるエネルギーがない。

 

とはいえ。

日々ストレスを避けて刺激も避けての生活を続けていると脳が退化してしまうぞ、と思う。

観たいとも思わないTVドラマはどうでもいいのだが。普段がひきこもり同然のおひとり様なので、生の人間模様とか生活を見聞きする機会がない。フィクションであっても、ひとが動き回ったり笑ったり泣いたりするのをたまには観れば?と思う。

とはいえ(再)。

ネトフリ契約するとかは、非正規雇用の貧乏人には現実的ではない。TVも地上波しか契約してない。

ドライアイがひどいので、スマホ視聴ものは不可だし。

ブックオフで¥110の本を買って読み終わったら¥5で売るとか。…面倒かつ貧乏くさ過ぎる。

 

春ドラマも、観てみようかなと思うものはない。

ドラマ以外も。

ブラタモリ」「ヤギと大悟」は、もう観られないし。「日本百低山」はBSに移ってしまったし。

プロジェクトX」は、昔はよく観たけど。今は、観たいと思わない。

平成以降も結局日本はOBCかよ、な内容だったとしたら教育上もよくないんじゃね?て、令和の若者は観ないだろうから杞憂か。

 

何にしても。

プロ野球は時々観るだろうけど。TV離れの春である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年3月16日 自然公園その11

洗濯機を2回回して干して、家を出たのは10時頃だった。歩きたい気分だったので、公園へ。

土曜の10時台に初めて来てみると、望遠レンズ勢があまりおらず、年配のご夫婦が多かった。陽が高くなると野鳥は林の奥へ行ってしまうし、家族連れは出足が遅いし、10時にもなれば冷え込みは緩んでいるので、年配者の時間帯なのだろうか。

ツグミが地面を歩いている。ヒヨドリの声が聞こえる。彼らとも、冬空に映える冬木立とも、そろそろお別れだ。

メジロを見かけた後、樹の下で羽繕いをしている鳥を見た。ウグイスのように地味な背、細身、腹は斑、目元は白い。

帰宅後、調べてみると、ビンズイだったと思われる。区分は漂鳥。

きみも行ってしまうのか。

 

 

2024年3月2日 自然公園その10

朝9時前に自然公園に到着。底冷えした曇りがちの朝のせいか、先々週より人が少なかった。

歩き始めて早々、種か何かをむしる食事に夢中のシジュウカラを見学。メジロの群れも見れて、すっかりご機嫌。手近なことで楽しめる安上がりな人間でよかった。

ウグイスが鳴いている。梅の香り。足元にはオオイヌノフグリ青い花が咲いていて、暖冬だったのを実感する。

普段はマガモばかりの池に、珍しくコガモの番いが2組いた。たいへんにキュートである。

河津桜が満開。ツグミジョウビタキを見る。

9時半頃、駐車場に戻ると空きが減って、警備員さんまで出てきている。

そのまま買い物に行き、昼前に帰宅。久々に冷凍庫を一杯にする。

2月は胃の不調で、米と煮た野菜を主に食べていた。ようやくお腹いっぱい食べられるようになったが。

グルテンフリーとか全然関心がなかったが、試しに小麦系を抜くと、胃がしんどい感じがしないので「えーっ」となった。

うどんは、大丈夫だったので。今後も細々とは小麦製品を食べていこうとは思うものの、食生活は見直した方が良さそうだ。職場が不健康なのは改善不能、経済的苦境は処置なしなので、胃の負担を減らすには、他にできることがない。

食パンはもう1ヶ月以上買ってない。今後は時々3枚入りとかを買ってバタートーストを楽しむ、というお付き合いに(やめないんかい)

フライパンでホットケーキを焼いて休日の食事にするとかは、やめた方がよさそう。

気に入りのパン屋からも足が遠のくことになる。近年小刻みに値上げしているし、近くにでかい人気パン屋があるし、気が付いたら潰れていたりして。

ドーナツやケーキも節制かと思うと。パンほど執着はないけど「えーっ」と思う。

ローリングストック的に溜めている袋麺等は、食べる気がしなくなって、フードバンクを検索してみたが。近隣のフードバンクは平日しか受付が開いていないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

友達はいない以降の人生を

正月休みにエンディングノートを更新した。

葬儀について少々書き直した。昨年叔母の葬儀に参列して思うところもあった。小規模の家族葬でと前々から書いていたが、直葬も可、身内のみでと書いた。死んだことは知らせてほしい人々の欄は名前と住所だけにして、電話番号は書かなかった。葬式に来なくていい、という事。

友達はいる、と思っていたが。現在は「いた」が正確な表現で、最近はこの先は友達もなくひとりで過ごしていくのかーと思うようになった。

昨夏。数少ない友達に久々に会ったのだった。それからしばしば考えていたのだが、フェイドアウト的にお別れするのがよいだろうと思った。

久しぶりに会って、話して、楽しくなかった訳ではないのだが。

私は結婚せず子もおらず育児もせず、だらだら生きてきたので、50歳過ぎて気付くのは馬鹿丸出し的に遅すぎたのだが、彼女たちはこの先もずっと母親なのだった。子育てが終わった後も生涯親であり、親業の記憶の層は厚い。いずれ親じゃなかった年月の方が短くなる。

何で今まで気付かなかったんだろう、と愕然とした。

彼女たちが親になった頃は、10年もすればまた遊んでくれるだろうと思っていた。そうはならなかったが、たまに会えば、一緒にいるのは楽しかった。

そしてコロナ禍もあけて、久々に会った後。距離を取ろう思っている。

母親同士の、共通の話題や苦労話は、私とは無縁の、聞くだけの話だ。それは以前からのことで、彼女たちにとって現在進行中のことで、話題になるのは当たり前で、気にならなかった。

それが50を過ぎて。子供に手が掛からなくなれば、話題になるのは過去のこと、回想や消化しきれてない鬱憤だったりする。

私がいなければ延々そういう話をしていられるだろうに、気を遣ってか別の話題にしてくれるのだが、再び親業の話に戻る……その繰り返しになって、結局聞くばかりで、あまり話さなかった。

話すのは苦手だし、上手くもない。

でも時々思う。誰も私の話を聞いてくれない。子供の頃から、何でだか話を聞いて欲しい人間ばっかり寄ってきて、いつも聞く側だ。

フリーターに愚痴を言う権利はない、と知人に言われたのは二十代の頃だったが。その流れで言えば、家族を作っての苦労をしてない私が、話す側になるのは、おこがましいですか。

不満はさておき。

数十年の付き合いが続いた、気の置けない仲間だったが。一緒にいると、所在がないのだった。彼女たちの話題についていけないし、入れないので、聞いているしかない。友達でない人々の中ではいつもの立場なのだが、疎外感が半端ないのだった。

彼女たちは生涯親だし、つれあいもいる/いた だし、いずれ成人した子供より、親の介護が切実な問題になるかもしれない。私には全てひとごとだ。

つまり。この先もずーっと「疎外感半端ない」が続くなら、お別れした方が良いというものだ。気を遣わせなくて済む。そもそも家族持ちの時間を削るのは遠慮がある。

家族持ちだって時には家族から離れて息抜きしたいかもと、頭では思っても。相手が友達だと「癒しアイテムじゃねーよ」と意地の悪いことを思うようになったので、ひととして詰む前に、やはりお別れした方がいいのだった。

多分拗ねてもいる。大人げない自分にどん引く。

すっからかんだーと思う。家族もいないし貯金もなく、定職にも就けず、お先真っ暗である。この上、友達のない晩年足してどーすんのと思うけれども。

聞き役でしかいられないなら、ひとり でいる。

フェアであることが大事だと思ってきた。友達なら、例えば3時間しゃべり続けられても平気だった。私が3時間しゃべる羽目に陥った場合には、聞いてくれるはずだから。

もうそういう状況にはならないと、ここ数年の付き合いで察しがつく。フェア云々を気に掛ける程、ナイーヴな年頃でもない。

違う生き方。違う関心事。ひとの数だけ人生があるのは当たり前だろと思ってきたが。私は近くにいる人ともすり合わせられない程、遠くへ来てしまったし、頑なで狭量だ。何より、もうひとの話は聞き飽きた。

ひととの縁を大切にしない人生だったと思う。

とはいえ。とうの昔に切れてしまった面々を思い浮かべても、再会したいと思う相手はいないのだった。向こうもそうだろう。

自分のことしか考えない、ひとりきりの人生。

それも悪くないんじゃないの、と思っている。癒しアイテムじゃねーし。

ひとりは時々つらいけど、フェアになる見込みのない関係の中に居場所を見つけようとするとか性に合わない、というか、ありえん。

いい友達だった。

感謝してる。

 

 

 

 

 

 

 

2024年2月17日

先週の3連休は胃の具合が悪くなって、おかゆが主食だった。

吐き気や胃痛等、つらい症状はなかったし、急に悪くなったので病気の心配もしなかったが。

引き金になったのは、給湯器がエラーメッセージ付きで止まった件のように思う。20年以上は使っていて、おかしいなと思うことも時々あって、買い換え時なのはわかっていたが。3~40万が消える現実が差し迫ると、胃がおかしくなる。

職場はいろいろあるし。気候は悪いし。3月は1年で最も体調が悪い時期で暖冬だから2月に前倒しか? 何にしても、自分の脆弱さが厭になる。

少食になって体重は減ったが、体脂肪率は30%目前なので、自然公園へ歩きに行く。朝9時過ぎでも人が多い。梅の季節だからかもしれない。

相変わらず望遠レンズ付きカメラを抱えた人々がうようよしている中、珍しく双眼鏡だけを下げたご婦人を見かけた。見るだけという潔さにほれぼれする。